ここ数日、才能について考えることが多いので思考整理ついでに書いてみます。
才能とはつまり一般的なプロであれば見逃さない「違和感」に気づけるかどうかなのではないかと思う。
間違いに気づいたときにプロはどう感じるのかというと、ざっくり言うと「気持ちが悪い」のだ。ところが、プロになって何年経ってもこの「気持ち悪さ」を感じられない人がいる。
これが「才能がない」ということなのではないかと思う。
ここは謙遜しないで言いますけど、自分には何かしらの才能はあるとは思ってますよ。そうじゃないと、この業界では生きられないので。
の中の、「小生田淵がよく喋る2016年12月 2016.12.26 UP」内から引用。
隣の友達も視界の片隅の他人も関係ない。君と音楽、君とロックバンドだ。
僕には曲を書く才能がまあまああって、セットリストを組む才能が相当ある。おまけに他の二人はスーパーミュージシャンだ。安心してライブを見ていれば勝手に楽しくなるように仕掛けてある。あとは君がどう音楽を捕まえるか、それだけである。
徹底的に一人でやれ。音楽はいいぞ。
ロックバンドは今年も楽しかった。
来年もまあまあある才能を発揮して少なくとも自分は好きという曲を作り続けられればと思う。
君らも各々楽しく生きたまえ。
引用ぺたぺたしてたらおからじで採用された。わぁい!
才能、才能ねぇ。
この才能があったらな~ってよく思うのは、運動神経と、歌唱力と、イラストかね。定番だね。
それぞれの分野で人並み以上にやれる人からしたら「いや才能欲しいとか言ってる暇あったら努力しろや」なんだろうけど、なんか違うんだよな。
上手くなりたい。けど、上手くなるために努力をするほどそれをやりたいわけではない。上手かったらやりたいけど、下手な自分に我慢して努力して…というのは何か嫌だ。みたいな。
多分、歌うことが好きとか絵を描くことが好きとかいう気持ちがあったらそういう努力にも耐えられると思うんだけど、残念ながら僕にとってはそうではない。
もしかしたら、才能が欲しいという気持ちの裏側には、才能のある(もしくはめっちゃ努力して上手になった)人に嫉妬してるという側面もあるのかもしれない。人って醜いね~やだね~!
前回だか前々回だかのブログでも書いたけど、僕は僕の文章が大好きなんだな。
でも、僕の文章が一般受けするとは思っていないし、他人にとって面白かったり読み甲斐があったりするとは思っていないし、つまり才能があるとは思っていないんです。
だからと言って物書きの才能が欲しいかと言われるとそうではなくて…というわけでもないな。1年くらい前は「こんな文章が書きたい」があって、頑張ってみて、出来なくて。その時は才能欲しいって思ったかな。
それでも後に「まぁ俺はこっちのやり方でいいか~」って思ったし、そんな気持ちで書いてたら自分の文章が好きになってきたし、今はとても満足しています。
僕に才能があるとすれば、自分の好きな文章をひょいと書くことができる、という点でしょうか。もう全然頑張ってないもんね、ハナクソほじりながらでも書ける。
さっき絵を描くこととかは楽しくないと言ったけど、文章を書くことはとても楽しくて、かつ全然頑張らなくていいと。だから続けられると。そして不思議なもんで、続けていくと勝手に上手くなっていくんですよね。
何を以て「上手い文章」なのかは分からないし、上手くなろうと思って書き続けたわけではないからどうやったら上手い文章が書けるのかは分からないんだけど、それでも明らかに今の僕は昔の僕より文章を書くのが上手くなっている。これが有名なブログ七不思議です。あと6個は今度考えよう。
もしかしたら、これが才能ってやつなのかもしれない。
僕には文章を書く才能がまあまああって、自分の好きな文章を書く才能が相当ある。
まあまあある才能を発揮して少なくとも自分は好きという文章を書き続けられればと思う。
こういうことでしょうか。
卒論も終わり、春までの数ヶ月間は貴重なモラトリアム期間なので、何かしらやってみようと思ってるんです。
色々候補はあるんだけど、ここで発表するのはちょいと恥ずかしい。小説書いてみようとか、絵を描いてみようとか、もっと飛躍して作曲してみようとか、色々ね。
どれも本気でやろうと思っているわけではなくて、このクソ暇な時期にやらなかったら多分これからもやらないだろうな~って思ったので、嫉妬にまみれた卑しい目で見ていたことを実際にやってみるのもありなんじゃないかと思ったわけです。
そしたら何か新しい考え方とか新しい見方ができるようになるかもしれないし、もしかしたらめっちゃ才能あるかもしれないし。多分無いけどな。それはそれで楽しい経験になる気がする。
まぁ、そんな感じでした。
たまには短いブログも良いもんだ。
おわり